悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
「ねぇミユキ、楽しかった?」
「……うーん、まあね」
IONにある中華レストラン、インペリアル・トレジャーからの帰り道。
今夜もそこで、今月何回目かの、親戚との「ファミリーディナー」があったのだ。
中華系シンガポーリアンの夫は、私の返事の裏側に、ちゃんと不機嫌さを感じ取ってくれただろうか。
“あなたの親戚との食事なんか、楽しいわけないでしょ”という言外のメッセージを、ちゃんと受け取ってくれただろうか。
そんなわけ、ないよね。
頭の中でそんなことを考えながら、バレないようにため息をつく。
この国に来てからというもの、少しずつ少しずつ、自分が摩耗していっている気がする。
「ごめんジェイムズ、私、ちょっと一人で散歩してから帰るね」
「え、俺も一緒に散歩するよ」
「ううん、大丈夫。たまに一人でブラブラ、街を歩きたい気分なの」
「そっか。わかった。早めに帰るんだよ」
そう言ってジェイムスは、おとなしく帰路についてくれた。
新興住宅地にある私たちの新居は、MRTとLRTを乗り継ぎ、さらにバスに5分ほど揺られた先にある。
真新しいHDBはそこそこに気持ちがいいけれど、私はやっぱり、古くたって都心に近いコンドミニアムに住んでみたい。
日本人の友達が無邪気に、「どの辺に住んでるの?」と聞いてくる度に、心は重く沈むのだった。
私とジェイムズは、オーストラリア留学中に知り合った。
メルボルンの大学には、もっと格好いい男の子もたくさんいたけれど、私はジェイムズの優しさに夢中になったんだ。
お姫様扱いというものが一体どんなことを指すのか、身を以て教えてくれたのがジェイムズだった。
朝には朝食を作ってくれ、夜には念入りにマッサージをしてくれ、誕生日には高価なプレゼントを買ってくれる。
何も言わなくたって全て先回りしてやってくれる彼は、まさに運命の人に違いないと思った。
だから卒業と同時に彼にプロポーズされた時も、断るなんて選択肢は、一瞬足りとも頭をよぎることがなかった。