悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
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「あ……」
私が色とりどりの傘の向こうに、早足で歩くあの人の姿を見つけるのと、あの人が私に気づくのとは、同時だったように思う。
お互いに、一瞬だけ考える顔をした。
けれどその間が解けた後、直志はまるで吸い寄せられるかのように、するりと私の傘へと入って来た。
「ひ、久しぶり、直志」
「恵。元気……だった?」
間近で見る彼の目元には少し、皺が増えた気がした。
けれど嫌な皺ではなく、柔和な人柄を引き立てる、むしろ魅力的な皺だと思った。
彼もきっと、何かしらの私の変化に気づいたことだろう。
女45歳、たった1年会わないだけで、月日は残酷に若さの名残をすくい取っていく。
「どこ行くところだったの?」
「少し買い物をして、家に帰ろうかと」
「私もちょうど、同じこと考えてた」
「そっか。あのさ……ちょっと、歩こうよ」
眉を寄せて、少し困った顔で笑う彼。
胸がぎゅっと、締め付けられる気がした。
別れた二人が夜のシンガポールを歩く、奇妙な散歩の始まり。
突然なことに戸惑うけれど、きっとこんな日が来ることを、私はどこかでひたすらに待ち続けていたんだと思う。
今日、綺麗な色のワンピースを着ていたのは、決して偶然じゃない。
かかとが擦れていない靴を履いていたのだって、偶然なんかじゃない。
私はここ1年、心のどこかでずっと、この奇跡に備えていた気がする。
「シンガポールから、遠いところ来てもらって悪いんですけどねぇ、子供が産めない嫁なんか、いらんとですよ」
去年のちょうど今頃、結婚したい旨を伝えるために、九州の直志の実家を訪れた時のことだった。
まっすぐに私を見つめてそう言った直志の母に、取りつく島はなかった。
「でも母さん、健二のところはもう3人も子供がおるとやろ?」
「健二んとこは次男やろう。うちの長男はあんたばい!」
直志も私も、当時44歳。直志はともかく、確かに私が子供を持てる確率は低かった。
しかし、こんなにも面と向かってはっきりと拒絶されるとは思っておらず、私は涙を堪えるのが精一杯だった。
優しい直志はそれでも一緒にいようと言ってくれたけれど、その一件から私は直志と距離を置くようになった。
私と一緒にいることで、直志の人生から“父になる喜び”が奪われてしまうと思うと、もう関係を続けていくことは考えられなかった。
直志は魅力的な人だ。
私のことは別れて若い女性と恋をしてほしい……そう伝えて、去年、無理矢理に関係を終わらせた。