悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
「……ったく。誰のお陰で優雅にシンガポール生活ができてると思ってるんだ」
シンガポールで過ごしてきた4年間、夫はいつもそう言って私を黙らせてきた。
結婚して、6年。もともと海外には興味があったから、シンガポール駐在に帯同することが決まった時、確かに嬉しくてたまらなかった。
でも……
海外生活のストレスが、夫を少しずつ変えていった。
「付き合い」と称して毎晩飲み歩くようになり、手当がついていても全く貯金ができない。酔って帰ってきては、
「お前はいいよな、気楽な駐妻生活で」
「駐在員ってのはなぁ、なんでも自分で問題を解決していける奴にしか務まらないんだ。その苦労がお前にわかるか」
と絡まれた。せめて家計を助けるため、そして夫に「お気楽な立場」と呼ばれないために働きに出たものの、それに対しても
「俺のお蔭でDPが出てること、忘れるなよ」
「お前の仕事は気楽でいいよなぁ。DPさえ持ってれば、どんなに出来なくたって雇ってくれるもんなぁ」
と、容赦無く見下されてきた。言い返せなかったのは、自分に自信がなかったからだ。
だって私は、夫のシンガポール駐在について来たからこそ、海外に暮らしたり働けたりしている。
夫も多大なストレスを抱えながら頑張ってくれているのだから、多少嫌なことを言われても、耐えなくては……
そう、思って、来たのだけれど。
気まぐれに登録した転職エージェントからの電話が、私の心に大きな波紋を巻き起こすこととなった。
「田村さん、先日は面接お疲れ様でした」
「ありがとうございます、やはりダメでしたか?」
「いえいえ、とんでもないです。先方はぜひ田村さんに働いていただきたいと言っていまして……
ただ、ひとつお伺いしたいことがありましてですね」
「はい、なんでしょう?」
「田村さんはとてもご優秀な方なので、そのう……面接を受けていただいたポジションではなく、他のポジションで採用したいとのことなんですよ」
「えっ、どんなポジションですか?」
「田村さんの総合的なスキルを活かして、ドバイ出張所を切り盛りしていただきたいと。
もちろん、駐在員待遇ですので、不自由は全く無いかと思います」