悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
「坂木くん、悪いけど、また本社で活躍してもらえないかな」
電話越しの、上司の声。予想はしていたものの、足元からずぶずぶと地面に飲み込まれていくような気がした。
「じゃあ、シンガポール出張所は……」
「あ、うん、閉めて」
まるでそこのドアを閉めてと頼むような気安さで、上司が言う。俺が1年かけて築き上げてきたものが、まさに無と返そうとしている瞬間だった。
「じょ、常務」
「なんだい?」
「もう少しお時間をいただければ、マンプク商事に代わる取引先を見つけることは可能だと思うのですが」
「うーん、そうは言ってもねぇ。もう、決まっちゃったことだから。どれくらいで出張所閉められそう?」
「……少なくとも、2ヶ月は」
「ああそう。じゃあ、悪いんだけど、2週間で閉めて帰ってきて」
「ええっ?!」
「日本は今、暑いぞう。続きはまたメールででも話そうよ。ご苦労ご苦労、気をつけて帰ってきてな」
ガチャリと切られた通話が、これ以上話し合いの余地など無いことを物語っていた。
こうして俺の、念願のシンガポール進出は、あっけなく終わりを告げた。
100年超の歴史を誇る、老舗食品メーカー。そう言えばさぞ安泰にも聞こえるが、俺の会社は年々売上が減少していた。
そのことに危機感を覚えていた人間が、果たして社内に何人いただろう。
俺は、そんな社風に風穴を開けるためにも、なんとしても新しい市場の開拓に取り組むべきだと考えた。
3年かけて社内を説得し、半ば見切り発車のような形でシンガポールに出張所を作った。
赴任したのは俺ひとり。
幸いなことに、進出してすぐに、シンガポールに広く小売ネットワークを構築しているマンプク商事との取引をスタートさせることができた。しかし……
そのマンプク商事が、突然、取引の中止を申し出てきたのだ。
「申し訳ないんだけど、他の会社さんと独占契約を結ぶことにしたから」という、身も蓋もない理由とともに。