悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
「ねえ、あなた……」
「なんだい?」
「……えっと、あのね……」
「なんだよ聡子、勿体ぶって」
「う、ううん、あのね、ごめんなさい……実は、おビール切らしちゃったの」
「なんだよー。頼むよ、それだけが俺の楽しみなんだからさ」
「ごめんなさい、すぐに買ってくるわね」
家を出ると周囲はもう暗く、ほぼ満月に近い月が、目前に大きく輝いていた。
咎めるように私を見下ろしている。
はぁ……。
大きくため息をつき、スーパーとは逆方向へと、歩みを進めた。40代になって幾分ボリュームが減った長い髪を、夜風がかきあげていく。
今日も、あの人に、切り出せなかった。
胸の中を、どんよりとした気持ちが満たしていく。どうしても言えなかった一言を、風にかき消すようにして、そっと呟いてみる。
「ねえあなた、私……好きな人ができたの」
その語尾は、通りがかった若者グループの笑い声にかき消されて、自分の耳にさえ届かなかった。
住んでいるコンドの近くに、ちょっと変わったセンスの花屋ができたと聞いたのは、つい2ヶ月ほど前のことだった。
花を飾る習慣は、シンガポールに移り住んでから身についたもの。
夫婦ふたりで暮らす部屋は、いつもどこか寂しかったから、私は明るい色の花をよく飾るようになっていた。
「いらっしゃいませ! 何をお探しでしたか」
店の扉をくぐるなり響いてきたのは、低いバリトンボイス。
2秒遅れて花の影から姿を現したのは、花とはいささかミスマッチな、筋肉質な若い男性だった。
白くピッタリとしたT シャツに、デニムのエプロン。コームで整えられたクラシカルな髪型のせいもあって、「男前」という表現がピッタリの好青年だった。
その日は、彼が薦めてくれた、薄紫のあじさいを買って帰った。
オシャレなクラフトペーパーに包まれたそれは、他の花屋より少し高くついたけれど、そんなことはどうでも良くなるくらいに素敵だった。
このようなイマドキふうの花屋のことを、ヒップスターフローリストと言うらしい。
その時はてっきり、この心のときめきは、彼から買った花のせいだとばかり思っていたのだけれど……