悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
「ねぇー。まだ水漏れしてるんだけど」
「……だから、大家さんにはもうメッセージしたって言ってるだろ?」
「メッセージだけじゃ伝わってないのかもよ? 電話してよ、電話」
「……」
完全にスルーして、携帯をいじってる智洋。
私は胸の中の息を全部吐き出すように思い切り、はあっと、大きなため息をついた。
シンガポールに引っ越してきてから、智洋は全く頼り甲斐がなくなってしまった。
智洋はかつての「憧れのお兄さん」で、私の初恋の人。
そんな人と結ばれて天にも昇る気持ちだったあの頃が、とても遠く感じてしまう。
英語が苦手な智洋は、水漏れみたいにシンプルなことを解決するのにさえ、時間がかかってしまう。
そして正直、言葉に詰まってニヤニヤしてる時とか、ちょっと……
「……カッコワルイ」
心の中で呟いたはずなのに、気づくと小さな声が出ていた。
智洋が、はっと携帯から顔を上げる。
まずい、誤魔化さなきゃ。
「か、カッコワルイよね私、この前、生クリームかと思って買ったやつがサワークリームだったの。よく見たら書いてあるのに、あは、あはは」
「……そうだったんだ。美保、あのさ……」
「あ、そうだ! 私、ちょっと、散歩がてら買い物行ってくるね!! ごめん夕飯、できてるから食べておいて!!」
誤魔化せていないことはわかっていた。
だから、いたたまれなくて家を飛び出してきてしまった。
コンドの敷地から出た途端、ブワッと涙が噴き出してくる。