悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
このシリーズの過去記事↓
「今日も遅くなるから。里美は先に休んでて」
「……うん、わかった」
この優しい人に、朝から嘘をつかせたくない。
私が夫に、遅くなる理由を決して問いたださない理由は、ただそれだけだ。にっこりと笑って出て行くこの人を、毎朝見送ることができる幸せ。
その幸せを自分の手で壊してしまわないために、私はもう、ずいぶんと長いこと“見て見ぬフリ”を続けている。
風の噂によると、夫の不倫相手は、きれいな人らしい。
夫の会社でパート勤めをしている、DPホルダーの日本人女性で、ご主人は日系クリニックのお医者様だと聞いた。
しかも資産家のご令嬢で、語学が堪能と聞いている。
私が男でも、そんな人と恋をしてみたかった。
だから仕方がないことなのだ。
私は美しくもないし、頭も良くないし、取り柄と言えば炊事と洗濯だけ。
英語だっていつまでたっても喋れるようにならないから、夫に迷惑ばかりかけている。
そんな私を捨てずにいてくれるだけでありがたいのだから、ちょっとの浮気くらい、我慢しないと。そう思って耐えてきた。
なんとか耐えてはきた、のだけれど……。
夕暮れ時、時折、どうしようもなく悲しくなる日がある。
今日がちょうど、そんな日だった。
これから徐々に暗くなる空を眺めながら、もしかしたら万が一あの人が早めに帰ってきてくれるのではないかと、期待してしまいそうな自分が嫌だった。
だから私は珍しく、どこか外で夕食を取ることにしようと、まだ日があるうちに家を出たのだった。