悩めるシンガポール在住者の前に、忽然と姿を表す場末のスナック、それが「夜間飛行」。
赤い布張りのソファに、古ぼけたミラーボール、そしてそれらを包み込む、懐かしい昭和の歌謡曲。
これは異世界? それとも幻?
時代に取り残されたようなその空間は今夜も、疲れた人々の心にそっと寄り添う……。
シンガポールはラーメン激戦区だ。そんなことはわかって進出した。
けれど、こうも閑古鳥が鳴いていると、さすがに不安にならずにいられない。
俺はグツグツと音を立てる大鍋を見つめながら、ひとり物思いに耽っていた。
なぜだ。なぜうちのラーメンを、誰も食べに来ないのだ。
「おう、俊太郎」
「なんですか、龍さん」
「俺、ちょっくらビラ配り行ってくるわ」
「もう6時過ぎなんですから、お客さん、入ってくるかもしれませんよ」
「夕飯どきだからこそ行くんだろ。そしたらお前が対応しとけよ」
「はい」
人でごった返す目抜き通りを、エプロン姿のまま突き進む。いつものビラ配りスポットに落ち着くと、一人一人に対してチラシを配り始めた。
「龍麺でーす、よろしくお願いしまーす」
「ハロー、龍麺、プリーズ・カム!」
日本にいた頃はビラ配りなど、したことがなかった。
俺は職人なのだから、こんなことはしたくはないのだが、背に腹は変えられない。ようやくひとり立ち止まってくれたかと思うと、チラシを一瞥して、こう言った。
「龍麺?」
「はい、ジャパニーズ・ロブスター・ラーメンです。食べに来てみませんか?」
「ロブスターって言ったって、ちっちゃいベイビーロブスターでしょ?」
「はい、でも……れっきとしたロブスターですよ」
「悪いけど、高すぎるわ。こんな、プロウンミーみたいなものに、30ドルも出せないわよ」
「あ、あのう、普通のエビラーメンもありますよ。たったの15ドルです」
「高っ! それならプロウンミー食べた方がいいわよ!」
そうなのだ。うちの名物であるロブスターラーメンは、今のところ、シンガポールでは非常にウケが悪い。
どうしてもローカルフードのプロウンミーに似ているように見えてしまうらしく、ファンの獲得に苦戦し続けていた。
プロウンミーなら、安い店なら3ドルで食べられる。
うちのロブスターラーメンの、実に1/10だ。
しかも残念なことに、プロウンミーは俺が食べても、なかなかに美味い。
いや、正直に言おう、かなり美味い。
それでも、進出しちゃったんだ。これで勝負し切るしか、ないじゃないか。