27歳で結婚以来ずっと専業主婦だった理乃。
日系大手商社に勤める夫、祐介のシンガポール栄転に伴って、3年前この常夏の国に引っ越してきた。
出世頭の優しいエリート夫を持つ、模範的な「駐在員の妻」だったはずの彼女の運命は、あの日を境に音を立てて変わり始めた……。
「レッスンおつかれさま。理乃はどうやって帰るの?」
華子のコンドミニアムをでたところで、ダリルが明るく理乃に話しかけた。
「そうね、ここからだと、32番のバスがうちの近くまでいくの。それに乗って帰ろうかな……」
常夏の照りつける金色の太陽が、少しずつ暖かいオレンジ色になって空を染め始めている。
ふとまだ高校生だった頃、部活帰りに友達とおしゃべりしな歩いたあの頃の感覚を 思い出す。
一瞬一瞬が楽し過ぎて、家に帰るのが惜しかった日々。
「そうか。俺もバスで帰るから、一緒にバス停まで行こうか。」
彼と肩を並べて歩くのは、なんだか不思議な気分だ。つい数週間前まで他人同士だった二人が、今は長年の友人のような気兼ねなさで隣同士にいる 。
「ありがとう……水泳のレッスン引き受けてくれて」
バス停に並んで腰掛けたダリルに向かって、理乃はそっと呟く。
「どうしたの?改まって?」
ダリルが不思議そうな顔をして理乃を見つめた。そして、
「多分ね……お礼をいわなきゃいけないのは俺の方かもしれないよ」
そういって、あの一度見たら忘れられない、どうしようもなく魅力的な笑顔を見せる。
「理乃は、あの日理乃のコンドミニアムのプールで僕にビーチボールを渡してくれたのが 、僕たちが初めて会った時だと思ってるんでしょ?」
え?違うの?
キョトンとする理乃を見て、ダリルがいたずらっぽく微笑む。
思い返そうとしても、それ以前にダリル会った記憶は少しもない。
もし昔…….会っていたら、ダリルを一目でもみたことがあったら……。
絶対に、忘れるわけない。こんなに素敵な笑顔を。
そんな確信に近い気持ちがあることに気づいて、恥ずかしくなる。
「会ったこと…はないのかもね。俺は君を「みた」ことがあるって言った方が正しいのかも。」
「えっ?」
「こんなこと言ったら驚かれるかもしれないけど……理乃は、よくBook Café で本を読んでるでしょ?俺、実はあのカフェのテラス席で何度も君をみてるんだよ」
Book Caféは、確かに理乃のお気に入りのカフェだ。その名の通り、中はちょっとした図書館かと思うほどたくさんの本が置いてある。
何時間でも長居できそうなゆったりとした雰囲気が魅力的な人気のカフェだ。
理乃は家から徒歩で行けるこのカフェで、本を読むの大好きだった。読むのはもっぱらサスペンス小説。
カフェオリジナルのアップルパイを食べながらの時間はいつも至福だ。
「俺、週に1回は君のコンドミニアムで水泳のレッスンをしてるんだ。だから、いつもあのカフェの前を通るんだけどね」
シンガポールの空から、バス停に斜めに差し込む夕日。
その柔らかく暖かい光にダリルが少しだけ目を細めた。
「毎回テラス席に座っている女性がいて、すごく気になってたんだ。いつも本に夢中で、周りの世界が見えてないって感じで。この人そんなに面白い本を読んでるのかって……」
そんなところを見られてたなんて……理乃は思わず下を向く。
「彼女の目を通して見る物語ってどんな感じなんだろう、ってずっとそう思ってたんだ。
だから、君とコンドミニアムのプールで初めて喋ったとき……正直なんだか初めてって感じがしなかったんだ」
そういって、ちょっと照れくさそうに笑うダリルを見て理乃は、またしても心の片隅に鋭い罪悪感を感じた。
それは……その瞬間に、理乃の心の中に「運命」という言葉がよぎったからかもしれなかった。