27歳で結婚以来ずっと専業主婦だった理乃。
日系大手商社に勤める夫、祐介のシンガポール栄転に伴って、3年前この常夏の国に引っ越してきた。
出世頭の優しいエリート夫を持つ、模範的な「駐在員の妻」だったはずの彼女の運命は、あの日を境に音を立てて変わり始めた……
(あらすじ)
誰もが羨むような専業主婦生活を謳歌していたはずの理乃だが、どこか心にぽっかりと空いた穴を抱えていた。
何年も前から望んでいるものの、子供に恵まれない。
真剣に向き合うことを避ける夫、お世辞にも良好とは言えない姑との関係。
そんな時、偶然にも自宅コンドミニアムのプールで、水泳インストラクターのダリルと出会う。
理乃は、ダリルに言葉では言い表せない運命的なものを感じてしまう。
そして親友の華子に進められるまま、ダリルに水泳レッスンを申し込み毎週顔を合わせるようになる。
屈託のない笑顔で夢を語るダリル。
それは理乃に過去の自分を思い出させるのだった。
「書くこと」が大好きだった、理乃は新たな創作活動を始める。
嫁姑の関係は悪化の一途を辿り、なんと理乃は義母から殴りかかられるという驚愕の事態に発展するのであった。
その事件の影響で入院することになった理乃に、ダリルから大きなお見舞いの花束が届く。
そこで、理乃はダリルの彼女に対する気持ちに気づくのだった。
チャイニーズイヤーのカウントダウンでお互いの気持ちを確かめあう二人。でも夫の祐介は、理乃に子作りをもう一度頑張ろうと言い出す。
さらには、ゴシップ大好きな駐在員妻、真美がダリルと理乃の関係を嗅ぎつける。逆にそれが理乃と、ダリルの心の絆を深めることになったのだが……そんな妻の異変を感じとった夫が逆に子作りに積極的になるにつれ、理乃の気持ちは冷めていくのだった。
「誰かの妻」ではなく、自分自身として何かを表現しながら生きていく。
自分の書いた小説をブログで公開すると決めてから、長い間忘れていたこんな感覚を思い出し、理乃は水を得た魚のようだった。
人気ブログにしたい。
なんなら書籍化も狙いたい。
もしかしたら、うまくいかないかもしれない……。
もしかしたら、周りの笑い者になってしまうかもしれない……。
そんな、ともすれば周りの人たちに失笑されそうな夢を持てるようになったのも、ダリルのおかげだ。
というより、彼と出会ったことによって、理乃が本来の自分を取り戻した、といったほうがしっくりくるかもしれない。
「私、時々自分が怖くなるの」
「どうして?」
「自分が自分じゃないみたいに感じて。あなたと出会う前の私はこんな大胆な事考えたり、ましてやそれを行動に移したり、絶対しなかったわ」
金曜日の夕暮れ時のCamp Kiloにいると、自分がシンガポールにいる事を忘れてしまいそうだ。
Kampong Bugisにある、古いビルの一階を改装して作られたレストランは、金、土、日の特定の時間しか開いていない隠れ家系ダイニング。
本格的な、ビーフやポークのチャコールグリルがとにかく美味しいのと、アンティーク調のヒップな雰囲気がシンガポールや欧米人の若者やファミリーに大人気、ピークアワーは席を取るのも難しくなる。
周りに建物がないのも手伝って、シンガポールの喧騒から逃避行できるユニークな場所だった。
「何ヶ月か前に理乃とダイビングショップに行った時のことをまだ覚えているよ。理乃はあの頃こう言ってた。『結婚している女性は夢なんて持たないのよ』って」
ジューシーなポークの炭火焼を頬張る手を止めてダリルが言う。
そうあれは、たった数ヶ月前の話だ。
「すごく不思議だった 。もちろん結婚して夢を諦めてしまう女性もきっといると思う。でも君は……理乃は絶対そんなタイプじゃないって感じたんだ。君は、夢を追いかけたいって思うタイプなはずなのに、どうしてそんなこと言うんだろうって……僕の直感は正しかったみたいだね」
そう言って真っ白な歯を見せながら笑うダリルを見て、あぁ、この瞬間が永遠に続けばいいのにと思ってしまうのは、恋をする女の愚かさだろうか。
それとも、この現実感を感じさせない隠れ家的なレストランの雰囲気と、DJが繰り出す真夏の夜のロマンチックなビートのせいなんだろうか?