04/05/2018
27歳で結婚以来ずっと専業主婦だった理乃。
日系大手商社に勤める夫、祐介のシンガポール栄転に伴って、3年前この常夏の国に引っ越してきた。
出世頭の優しいエリート夫を持つ、模範的な「駐在員の妻」だったはずの彼女の運命は、あの日を境に音を立てて変わり始めた……。
シンガポールの夏は暑い。いや、年中夏なんだけど……ね。
常夏の昼下がり、理乃は、自宅にあるプールサイドで読みかけの小説を片手に物思いにふけっていた。
リバーバレー地区の真ん中に位置するこの高級コンドミニアムは、様々な国の駐在員が住むこのエリアの中でも特に大きく目を引く32階建の建物だ。
16階部分には、水泳の世界大会が開催できそうなくらいの大きなプールがあって、そのデザイン性の高さがこのコンドミニアムが人気の理由だと言われている。
理乃はプールサイドに均等に置かれた重厚なビーチチェアの1つに腰掛けて、ゆらゆら揺れる水面に常夏の太陽が反射し芸術的な輝きを放つのを眺めた。
プールの中では3〜4歳くらいの女の子が、お母さんと思われる女性に抱きかかえられながら、水遊びしていた。
キャッキャとはしゃぎながら、水しぶきをあげる女の子。
それを笑顔で見守る母親……。
思わず、理乃はショートパンツのポケットに入れていたものを取り出し、まじまじと見つめた。
レディースクリニックと書かれた名刺サイズのカード。
この前親友の華子とランチした時に、彼女が手渡してくれたものだ。
「ここの先生は、不妊外来の権威なのよ。」
そう言った時の彼女の真剣に理乃のことを心配する眼差しが胸に刺さって、思わず目をそらしてしまった。
カードに目を落とす。薄ピンク色の背景色に黒い文字で、診療時間と連絡先が書いてある。
理乃はその数字の羅列を親指でそっと撫でた。