我輩はマーライオンである。そっちじゃない、小さい方だ。
そう、観光客に大人気のあのでかいマーライオンの傍で、ショボく水を吐いている、ミニマーライオンである。
俺たちマーライオンには、それぞれシンガポールの守り神としての担当がある。
一番大きなセントーサのオジキは、シンガポール居住者担当。エースであるマーライオンパークのアニキは、観光客担当。
そして俺は、そのどちらにも属さない中途半端な人々、いわゆる『浮遊層』を担当している。
はっきり言って閑職だが、俺はこの『浮遊層』たちが大好きなんだ。
俺が守り神として使える魔法は、二つだけ。
人のお腹を瞬時に空かせることと、二日酔いを防ぐことだ。
なんの役に立つのかって?
いやいや、これがどうして、なかなか役に立つものなのさ。
おや? 今宵も、愛すべき浮遊層が一人……。
俺は河本雄三、72歳。
3年前に妻・千草に先立たれてからは、いわゆる天涯孤独の身というやつだ。
そしてついにこの間、腰痛で病院を訪ねたら、III期の膵臓癌が発覚した。
思いの外早く妻のところに行けるのだから、むしろ願ったり叶ったりだ。
いずれにしても治療は難しい癌だそうだから、積極的な治療は何もしないことを選択した。
けれど、こんな俺にもひとつだけ心残りがある。
シンガポールへは、その心残りを少しでも軽くするために来たんだが……恥ずかしながら、この期に及んで、未だに目的が達せずにいる。
少し長い身の上話になるが、聞いてくれないか。
3年前に亡くなった千草は、実は2人目の妻だ。
職場に新入社員として入ってきた千草と出会った当時、俺にはすでに妻と息子がいた。
最初は自分の気持ちを抑えようと必死だったんだ。
けれどそれは、無視するのにはあまりにも強烈な気持ちだった。
7年も必死で気持ちを隠した後、どうにも我慢しきれなくなって想いを伝えた時、千草は
「……知っていました……」
とか細い声で言った後、泣き崩れた。
彼女もまた、俺に惹かれる想いを、長年のあいだ、必死でこらえ続けてきたのだ。
ついにこの悪趣味な運命に白旗を上げた俺たちは、一緒になることを決意した。
けれどそれにはまず、俺が離婚をしなくてはならない。
醜い、それはそれは醜い議論が始まった。
金ならいくらでも出すと言った俺に対し、当時の妻は頑なにそれを拒否した。最終的に、
「あなたからのお金なんて一銭も受け取らない。もちろん、息子にも会わせない。母一人子一人、あなたたちを恨んで生きていくわ」
という呪詛とともに、なんとか離婚が成立した。
あれからもう、40年近くが経過した。
あの時千草を選んだことに後悔はしていない。
ただ……余命いくばくもない俺には、少なくない額の預貯金があった。
せめて息子に、この金を渡してから死にたい。
その想いで興信所を頼ると、息子が現在、外食チェーンの責任者として、シンガポールに駐在中であることが発覚したのだ。
息子は毎日、餃子専門店の店長として店に立っているはずだ。
モールの中にあるその店舗の近くまで、毎日行ってみるのだが、結局店の中を覗くこともなく帰ってきてしまうのだった。
俺は……俺は、息子と先妻を捨てて、千草と一緒になったんだ。
受け取ってもらえなかったとは言え、養育費も慰謝料も支払わなかった父親だ。
今更どんな顔をして会えば良いのかと考えると、どうしても勇気が出なかった。