我輩はマーライオンである。そっちじゃない、小さい方だ。
そう、観光客に大人気のあのでかいマーライオンの傍で、ショボく水を吐いている、ミニマーライオンである。
俺たちマーライオンには、それぞれシンガポールの守り神としての担当がある。
一番大きなセントーサのオジキは、シンガポール居住者担当。エースであるマーライオンパークのアニキは、観光客担当。
そして俺は、そのどちらにも属さない中途半端な人々、いわゆる『浮遊層』を担当している。
はっきり言って閑職だが、俺はこの『浮遊層』たちが大好きなんだ。
俺が守り神として使える魔法は、二つだけ。
人のお腹を瞬時に空かせることと、二日酔いを防ぐことだ。
なんの役に立つのかって?
いやいや、これがどうして、なかなか役に立つものなのさ。
おや? 今宵も、愛すべき浮遊層が一人……。
私は泉綾子、34歳。
普段は愛知県にある実家で家事手伝いなんだけど、今はシンガポールに滞在中なんだ。
滞在先? すっごく素敵なコンドミニアムよ!
プールなんか3つもあって、ジャグジーもある豪華なところ。
イーストコーストってエリアなんだけど、LAっぽくてとても落ち着くの。
LAには行ったこと、ないんだけどね。
どうして私がそこに滞在できているかっていうと、なんと、昔フッた元彼が今、シンガポールに駐在中だからなの〜!!
自分がこの世で一番モテると信じて疑わなかった10年前。冴えないメーカー社員だった彼が、どうも他から見劣りして見えて、なんだか物足りなくなっちゃったのよね。
ちょうどその頃、羽振りの良い男性に口説かれてたし、そっちに乗り換えることにしたの。
まさかその男性が実は既婚者で、しかもすでにバツが3つもついている人だなんて、その時は思いもよらなくて……。その後もいろんな人と付き合ったけど、なぜか結婚までは至らないまま。
年齢も年齢だし、親からのプレッシャーもあるしってことで、ちょっと焦ってたのね。
そんな時にふと、元彼……ワタルって言うんだけど、ワタルのことを思い出したのよ。
Facebookで検索してみたら、ビンゴ。
マリーナベイサンズを背景に、余裕たっぷりに笑う、彼のプロフィールを発見しちゃったってわけ。
あの冴えない彼が、今やシンガポールに駐在中なんて、元カノの私もびっくりよ!
ワタルの方も、きっと私に未練があったんだろうな。
メッセージしたら普通に返してくれたから、「シンガポール、いいな〜♡ お泊りに行きたい♡♡」ってお願いしてみたの。
そしたら、「部屋が余ってるし、いいよ」って、あっさりオッケー。
「えー、でも彼女に悪いしぃ><」って言ったらなんと、「彼女はいないから大丈夫だよ」との返事。
やだもー! これはもう、シンガポールまで押しかけて、なんとか復縁して、駐在妻ポジション狙っちゃうしかないでしょ〜!!
ってことで、この国に来て、早2週間。素敵なコンドに住んで、夜はワタルのために和食を作って、みたいなことを続けてきたんだけど……なんか、変、なんだよね。
なんていうか……そのぉ……ワタルが、全然、手を出してきてくれないの。
「ねぇワタル、あのさ……ご飯、美味しいかな?」
「え? めっちゃ美味しいよ!」
ある日の夜。
私の作ったご飯を食べるワタルに話しかけたものの、なんて本題を切り出していいかわからなかった。
うーん。ここは少しずつ話していくしかないのかな。
「素敵なコンドミニアムに泊めてくれてありがとう、ワタル」
「とんでもないよ! お礼にって言ってこんなにうまい和食を作ってくれるんだから、俺の方がむしろ助かってる」
「そっか……あのさ、昔のことなんだけど」
「昔のこと?」
「うん、私、10年前、すごく身勝手にあなたと別れたじゃない? 怒ってたりする?」
ワタルは私の神妙な顔が相当おかしかったのか、ぷっと吹き出した後、屈託のない笑顔でこんなことを言った。
「まさか! もう10年前だぜ? それに俺たち、実際問題、今じゃこんなにいい友達だろ」
「あ、うん……」
友達。なんだかその一言が、グサリと痛い。
「いたかったら、いくらでもいてくれていいんだぜ。メイドさんじゃあ、綾子みたいに美味い和食は作れないもんなぁ」
「そ、そっか、ありがとう」
「綾子と結婚する人は幸せだろうな」
どくん。心臓が跳ねる。この一言、やっぱり……ワタルは今も私のことを、想い続けてくれているんだ!
「あのねワタル!」
「ん?」
「あのね……私……ワタルともう一度、付き合ってもいいと思ってる!」
い、言ってしまった。
お茶碗を持ったまま、固まるワタル。
やがて彼はしばらく何かを考えるように手元を見つめると、こちらを向きなおして、口を開いた。