我輩はマーライオンである。そっちじゃない、小さい方だ。
そう、観光客に大人気のあのでかいマーライオンの傍で、ショボく水を吐いている、ミニマーライオンである。
俺たちマーライオンには、それぞれシンガポールの守り神としての担当がある。
一番大きなセントーサのオジキは、シンガポール居住者担当。エースであるマーライオンパークのアニキは、観光客担当。
そして俺は、そのどちらにも属さない中途半端な人々、いわゆる『浮遊層』を担当している。
はっきり言って閑職だが、俺はこの『浮遊層』たちが大好きなんだ。
俺が守り神として使える魔法は、二つだけ。
人のお腹を瞬時に空かせることと、二日酔いを防ぐことだ。
なんの役に立つのかって?
いやいや、これがどうして、なかなか役に立つものなのさ。
おや? 今宵も、愛すべき浮遊層が一人……。
私は迫田みやび、28歳。
半年前にこの国にやって来た時の私は、期待に胸を膨らませた花嫁候補だった。
長い遠距離恋愛を経て、シンガポーリアンの彼と婚約して、そして結婚のためにこの国にやって来たの。
ところが……彼が不慮の交通事故で亡くなって、私は全てを失ってしまったんだ。
シンガポールに来て、2ヶ月ほど経った頃の出来事だった。
正直あの頃、彼との関係は最悪だったと思う。
私は大きな期待を抱いてやって来たシンガポールの暮らしに失望していた。
彼の両親との同居もさることながら、自分の両親ばかり大事にして、私のことはあまり鑑みてくれない彼に対して、ものすごくフラストレーションが溜まってたんだ。
口論に続く、口論。
お互いに気持ちもすっかり冷めて、まさに婚約解消まで本当に秒読み……という状況のある日、突然、あの事故が起こったんだ。
バイクで、バカみたいにスピードを出して、どこかに向かう途中だったらしい。
PIEのガードレールに突っ込んで、全身打撲……という表現さえ可愛らしく思えるほど、ひどい損傷だったみたい。
私はあまりのショックに、彼が亡くなった時のことも、通夜や葬儀のことも、おぼろげにしか憶えていない。
それからはひたすら、彼の実家に留まったまま、部屋にこもって泣き続けるだけの日々だった。
こんな終わり方……納得いかないよ。
ひどいよ。どうして急にいなくなっちゃったの?
わけがわからないよ。会ってちゃんと話をしたいよ。私はこれから、どうすればいいの……?
どうやって気持ちの整理をつけて良いか全くわからないまま、ただ悲しみに沈む毎日だった。
時折ふと「ちゃんとけじめをつけたい」とは思うものの、その準備ができてないことは、自分自身が誰より理解していた。
だって……だって私はまだ、あのボイスメッセージさえ、聞くことができていないんだもの。
あの日。彼から私の携帯に、一本の着信が残っていた。
滅多に電話をしてこない彼だったのに、相当伝えたいことがあったんだと思う。
けれど私はその電話に気づかず、ボイスメッセージだけが残された。
それが聞けない。どんな内容か、恐ろしくて聞くことができない。
どんな内容であったとしても、聞けば自分が崩壊してしまう気がしていた。
もう一度彼の声を聞くだけでも、心臓が潰されるくらい切ないに決まっている。
彼の両親も相当にこたえているはずなのに、毎日家にこもって泣き暮らす私のために、ずっと食事を用意し続けてくれていた。
お義父さんはあれからすぐに仕事に復帰したようだし、お義母さんも、一見すると彼の死をすでに乗り越えたかのように見える。
私ばかりが無様に彼の死に溺れ続けているようだった。
いつか日本に帰らなくちゃ、とも思うけれど……どんな気持ちで帰っていいかもわからず、とにかく涙にくれて過ごすだけの日々だった。
私は完全に、世間からも、時間からも、取り残されて置き去りにされていた。
この日も、なんの変化も起こせないまま、仕事に行くお義父さんを見送り、友達に会いに行くお義母さんを見送った、その直後だった。