我輩はマーライオンである。そっちじゃない、小さい方だ。
そう、観光客に大人気のあのでかいマーライオンの傍で、ショボく水を吐いている、ミニマーライオンである。
俺たちマーライオンには、それぞれシンガポールの守り神としての担当がある。
一番大きなセントーサのオジキは、シンガポール居住者担当。エースであるマーライオンパークのアニキは、観光客担当。
そして俺は、そのどちらにも属さない中途半端な人々、いわゆる『浮遊層』を担当している。
はっきり言って閑職だが、俺はこの『浮遊層』たちが大好きなんだ。
俺が守り神として使える魔法は、二つだけ。
人のお腹を瞬時に空かせることと、二日酔いを防ぐことだ。
なんの役に立つのかって?
いやいや、これがどうして、なかなか役に立つものなのさ。
おや? 今宵も、愛すべき浮遊層が一人……。
私は新田ゆう子、41歳。
フリーの翻訳者になって10年、そして……あの人と出会って、もう8年になる。
結んではいけないこの縁はもう、そんなに長い間、絡まったままほどけない。
出会った頃の逢坂さんは、東京本社にお勤めだった。
打ち合わせのためにあのビルを訪れる度、冗談みたいにドキドキしていたっけ。
結婚しているのは知っていたけれど、物静かな逢坂さんが時々笑ってくれると、それだけで嬉しくて心が弾んだ。
でもこれは絶対口にしてはいけない想いだと、重々承知しているつもりだった。
4ヶ月にも及ぶプロジェクトが終わって、全てを納品したあの日。
帰ろうとする私を逢坂さんが、飲みに誘ってくれたんだ。
あの日の私があともうほんの少しだけ、しっかりしていたら。きっとそれからの8年は、全く違った8年になっていたと思う。
「新田さんに、もっと早く、出会えてたらなぁ……」
酔った逢坂さんにあの夜言われた、ありふれた一言。
そんな一言で私は、ありふれた不倫の恋に落ちてしまった。
当時こそ、罪悪感で消えてしまいたくなるような日々だと思っていたけれど……。
妻子の目を盗んで、数週間に一度だけ逢瀬を重ねていた最初の数年間は、今思えば可愛いものだった。
逢坂さんがシンガポール勤務になって、私はもっと罪深くなった。
単身赴任の逢坂さんの元に、足繁く通うようになってしまったのだ。
最初の訪星は、「一度だけ」と思っていた。
次の訪星からは、「今回が最後」と思い続けてきた。
けれど……知人がいないシンガポールの地で、はじめて手を繋いで街を歩いた日。
私は知ってしまったんだ。
知ってはいけなかった、喜びを。
身を滅ぼすほどの、喜びを。
それは、「人生のもう一つの可能性」が、リアリティを伴って現実に姿を表す喜びだった。
逢坂さんに、もっと早く出会えていたら……こんな人生だったのかな。
シンガポールは、そんな想像を形にしてくれる、夢のような場所だった。
逢坂さんと、こんなに自由に、一緒の時間を過ごすことができるなんて。
心臓が止まるほどの幸せで、シンガポールにいる時の私は、いつも泣きそうな顔をしている。