いつも違う美女と肩を並べているところを、よく目撃されるこの男性。
彼は佐野隆(さのたかし)41歳、日系ITコンサル会社のシンガポール現地法人社長だ。
いわゆる「マネージングダイレクター」と呼ばれる立場だが、実情は常に本社に気を使う中間管理職である。
本社との軋轢や、単身赴任の寂しさが醸し出す、独特の憂いと色気。
それが絶妙に美女の心をくすぐっているようだが……
彼自身は、どうやら全くそれに無自覚なようで。
「ご結婚おめでとう、ヒカルちゃん」
「……ありがとうございます、佐野さん」
そう言って俺たちは、今夜何度目かの乾杯をした。
ヒカルはこの店のオーナーソムリエだ。
日本人女性がひとりで切り盛りする、たった8席だけの小さなワインバー。
それだけでも話題性が高そうだが、メディア取材の類を一切受けないこの店は、熱狂的なファンだけが通う隠れた名店だった。
だった、と言ったのは、正式にはすでにこの店は昨日もう、閉店しているからだ。
出会った頃はまだ30代に入ったばかりだった彼女も、すでに30代半ばになっていた。
店の常連なら皆、この独身美女のハートを射止めるのは一体誰なのかと、いつも想像を巡らせていたに違いない。
もちろん佐野もその一人だった。だから彼女から、フランスに嫁ぐために店を閉めるのだと打ち明けられた時、期待以上にドラマチックな展開に興奮を隠せなかった。
好奇心丸出しで、どんな人?と訊いたところ、彼女の方から、「じゃあ最後にお店でおしゃべりしましょう」との誘いをくれた。
そのお陰でこうして俺は今、誰もいない店内で、彼女と向き合うことができている。
「それにしても、静かだなぁ。この店がこんなに静かだなんて、はじめてだ」
「そうですね。お陰様でいつも、誰かしらの常連さんがいらしてくれてましたから」
「昨日のラスト営業、それはそれは忙しかったんだろう?」
「皆さん長居はされなかったので、さほど。席にもつかず、お帰りになる方もかなりいらっしゃいました。気を使ってくださったんでしょうね。皆さん、在庫のワインをたくさん買っていってくださって。お陰で在庫は、ほとんど残ってません」
「そうかぁ、みんな、さすがにスマートだなぁ。ヒカルちゃんの教育がいいからだね」
「そんなそんな。お客様に育てていただいたのは、私の方ですから」
いつもと同じで礼儀正しく、ソツがないヒカル。
彼女は決して不必要に近づいてこない代わりに時折、驚くほどの優しさが込められた言葉を放つ。
常連は皆、そんな彼女の包容力と、丁寧にセレクトされたワイン達を求めて、足繁く通ってきていたのだ。
佐野にとってもこの店は、ともすれば殺伐としかねない駐在員生活における、数少ないオアシスだった。